loser's howling for tomorrow

ネタバレ注意。小説、漫画、アニメ、ゲーム、音楽、お笑いのことなんかを書き殴っています

音、知りそめし頃に

一年以上ぶりの更新です。
書きたいことはいっぱいあったんですが、ちょこちょこTwitterで言ってけばいいや、と思ってすっかりこっちはご無沙汰してました。
が、つい最近ショックなことがありまして、今音楽のことを書いておかないと後悔すると確信したので書きます。
主旨としては、現在41歳、バカボンのパパと同い年の僕が今まで聴いて感動した音楽を、体験した時系列順に追っていこうと、まあソレダケです。
同世代の方(70年代生まれぐらい)には追体験として。
もっと若い世代には、上から目線で「これぐらい聴いてなくて音楽好きを名乗るのは片腹痛い」とか言っちゃうような(言いませんが)糞みたいな老害の郷愁に少しおつき合い頂けたらと思います。
たぶんアホほど長くなると思うので、何度かに分けて投稿する予定です。



ちなみにショックな事というのはクリス・コーネルの死です。


彼についてはこの文章の「グランジオルタナ編」で、ちょっと引くぐらい粘っこい愛を語るつもりなので、今はただ、一時代を築いた偉大なシンガーがどうか安らかに眠ることを、そしていつかまたどこかで彼に会えるよう、祈りたいです。


さて本編です。
色々やり方は考えたのですが、とりあえず動画を貼っておいて、それについてコメントしていくというのが、やっぱりまあわかりやすいかなと。

そんなわけで行きます。

僕は幼い頃から映画やアニメが大好きでしたが、映像作品には付きものである音楽についてはあまり重視していませんでした。
もちろん主題歌や印象的なBGMなんかは覚えて口ずさんだりもしましたが、それはただ好きな映像の付随品として楽しんでいるだけ、というか、要するに純粋に音楽として耳にしていなかったんだと思います。
そんな僕が初めて好きになったバンド(バンドか?)がTMネットワークでした。
アニメ「シティー・ハンター」のED曲『Get Wild』がきっかけで、あとはその時の友達がファンだったのでカセットテープをダビングしてもらったりして、ずぶずぶとはまり込んでいきました。
10歳か11歳か、そこらへんですね。TMネットワークのUTSUこと宇都宮隆のヤン毛気味な襟足に憧れたりした記憶があります。すでに中二病発症の兆しが見えております。
貼ってあるこの曲はファンなら誰もが知る名曲なのですが、この後の小室哲哉の活躍が凄すぎて、一般的な知名度はあまり高くない気がします。のちに「小室節」と呼ばれるようになるベタなメロ引用がこの時はまだ新しかったんです。懐かしく、ちょっと恥ずかしいこのザ・80年代な空気は、多くのアラフォーたちの内蔵をかゆくさせることでしょう。ああ恥ずかしい。でも好きだったなあ…


TMネットワークに出会ってから他のどんなバンドやグループにも興味がなかった僕が次にハマったのはBUCK-TICKでした。きっかけはよく覚えていませんが、そろそろ中学生になって悪い子ちゃんぶりたい僕にとって、全員が髪の毛ツンツンに尖らせた暴走族みたいな彼らが中性的で派手なメイクを施していたのはショックでした。TMのいい子ちゃんな雰囲気とは違ってなんか文学的な不良って感じで格好いい!と、当時から坂口安吾寺山修司のような不良文学に憧れていた僕にはドンピシャのルックスにビビっと来て、この曲が収められているアルバム「Hurry Up Mode」を買いました。ちなみにですが、この年頃の男子というのは中性的な感覚も未だ持ち合わせている期間なのだと思います。萩尾望都先生の『11人いる!』で言うところの性的に未分化な存在。だからこそ僕は彼らに惹かれた、とも言えるかもしれません。

さてその最初に買ったアルバムを聴いて、ぶっちゃけ、めちゃめちゃ裏切られました。やってる曲は文学とも不良ともほど遠い、その頃のぼくにとってさえ軟弱と思えるほどのニューウェイブ風味の感じられるポップなビート歌謡ロックだったのです。
「え、あの見た目で?媚びた音楽すぎない?」
期待を裏切られた僕は、それでもあまり好きだと思えないそのアルバムを聴き続けました。中学生の小遣いで買えるアルバムなんてたかがしれてますからね。他に聴くもんなんてなかったのです。
それに、今だからこそ「媚びた」なんて表現が使えますが、何もわかっていないあの時の僕にとっては、その異常とも思える見た目と音楽性とのギャップは、それまで知らなかった興奮をもたらしてくれました。
あ、これって凄い好きかも。と一度思ってしまうと止まらないのが今も昔も僕の悪い癖です。とりあえずその時までにリリースされてるBUCK-TICKの音源を全部聞きたいと思いました(※)。といっても前述のように中学生になったばかりの子供にはそれを実現させることは難しかったので、まあありとあらゆる手段を執りました。一学年上のなんとか先輩がBUCK-TICKファンで、友達にヤンキーの子がいたのでそいつを頼ってその先輩にカセットテープを貸してもらったら、なぜかヤンキー仲間として引き入れられそうになったり、同じクラスにいる不登校気味のM君が大のBUCK-TICKフリークで、その頃はまだ珍しかったCDで全音源を持っているという話を聞き、M君の家にその日の学校のプリントを持っていくのを一ヶ月ほど続け、まずはM君の両親に取り込んで信用させ、少しずつだけどM君とも話すようになって、最終的に全音源をダビングしてもらったりもしました。
最低やなワシ。
M君にはいつか謝りたいと思っています。死ぬまでに会えるといいな。

 ※たしかこの時のBUCK-TICKの最新アルバムは「Taboo」か「惡の華」だったと記憶しています。


では、皆様お待たせしました。僕の物語第一部の主人公三人組。

Blankey Jet City(以下BJC)です。
先ほど僕は、BUCK-TICKに出会った時に、彼らに不良の文学を感じ取った、と書きました。その後僕はBJCに出会って、BUCK-TICKに感じた不良の文学を文字通り体現する『本物の特別』に出会ったということになります。きっとそうなのだと思います。
最初にBJCに出会った瞬間を、今でも昨日のことのように思い出せます。僕は色々あって(便利な言葉)昔の記憶を随分失ってしまっていますが、あの衝撃だけは忘れられない。テレビで偶然見かけた、SONYウォークマンのCMでした。

”……BGに『My Way』を流しながら「断固パンク」が肩書きのモヒカンパンクスと、「絶対クラシック」という想いを貫く白髪の老人、若者と老人がにらみ合う。二人は目を反らさないままお互いのポータブルプレイヤを見せ合う。それは同じSONYウォークマンだった。…ニヤリと不適に笑い合う2人……”

覚えてらっしゃる方は居るでしょうか。僕にとってあのCMは天啓とも呼ぶべきものでした。
あの頃の僕は、勉強ができるというだけで世界を見下して、自分以外はつまんねえやつばっかで話をする気にもならん、などと常日頃考えていました。本気でです。この時まさに14歳、もう中二病のまっただ中ですからね。何の根拠もなく、自分が一番頭が良くて格好良くて面白い、と思っていました。

初めてこのCMでBJCの音を聴いた時、それが全部ぶっ飛びました。
自分と同じような想いを歌に載せる奴らがいる。そして彼らは自分がやりたかったことをこのような形で果たすのか。俺より先に。
とか考える間も与えられずに、なんじゃこれ滅茶苦茶かっこええ!あ、今テロップ出た!…ぶらんきー、なんとかシティー?長い名前だし逆に覚えられそうだな、変な声だし、とか考えつつ自室に向かい最近買った音楽雑誌をしらみつぶしに読みあさって…見つけました。
たしかあまりマニアックではない、PATI-PATIとかぐらいの雑誌の四分の一ページくらいのスペースで「第六代イカ天グランドキング、メジャーデビューアルバム」というような記事とアルバムリリースの日程、'91年4月12日、が掲載されていました。
あのときの興奮も、きっと死ぬまで忘れないでしょう。それを知った翌日、僕は近所の小さな(そしてショボい)レコード屋さんに駆け込んで「おいババア、ブランキーのメジャーデビューシングルとアルバムを予約する。もし約束がたがう時があれば、それは貴様の運命の尽きる時だ!」的なことをなるべく柔らかい言葉遣いで、下から下からお願いしました。年配の夫婦が営んでいる小さなレコード店でその予約を取り付けるには酷く苦労した覚えがあります。

しかしまあ何とかかんとかBJCのメジャーデビュー音源、同時発売だったシングル『不良少年のうた』とアルバム「Red Guitar and The Truth」を発売日の一日前に購入することが出来ました(当時は田舎でも当たり前にフラゲ)。TVで聴いた『My Way』がどこにも収録されていなくて、おもむろに部屋のまどを開け放ち「なんでやねーーん!!!」と叫んでからまた窓を閉めたりもしましたが、そんなことは関係なかった。そこには『本物の特別』だけがあった。
このアルバムとシングルはちょっと制作サイドともめたらしく、メンバー達には納得いかない出来のままリリースされたのだとか。「充分かっこいいじゃん、どこが悪いねん?」と当時の僕は思いましたが、その後土屋昌巳が初めてプロデュースした2ndアルバム「BANG!」を聴いたら、曲の良し悪しはともかく根本的な音質がまず違うことが15歳の僕にでもはっきりわかりました。それぐらいがっかりなパッケージングで世に出てしまったBJCですが、ギターボーカルのベンジーこと浅井健一マジで紙一重の天才っぷりをはじめとするメンバーのキャラの濃さはひしひしと伝わってきました。
あ、音があれなだけで曲自体はすごくいいです。『TEXAS』、『胸がこわれそう』、『ガードレールに座りながら』あたりは後期に至るまで頻繁にライブで演奏されたし、初めてBJCが映像として電波に乗った『Cat Was Dead』、この曖昧な何がやりたいかわからない音作りにもかかわらず自分たちの魂をさらけだすかのような鬼みたいな演奏を聴かせる『僕の心を取り戻すために』、狂気に似た詩情を叫ぶ『狂った朝日』、アルバムのラストをスローテンポのヘビーでドラマティックな展開で見事に締めてくれる『MOTHER』など、名曲揃いの名盤と言って差し支えないと思います。もしこのアルバムを、次作「BANG!」以降長らく蜜月を築いた土屋昌巳がプロデュースしていたら、BJCのすべてのレコーディング作品の中でトップ3に入るぐらいのものが出来ていたんじゃないか、とか思ってしまいますが、この肝心な時にイマイチ決まらない感じというのは、これ以降もBJCというバンドを苦しめることになります。

と、この辺で気づきましたが、僕はブランキージェットシティーのことを語り出すと、本当にキリがないんです。ファンの間でも糞プロデュースの駄作と言われがちな「Red Guitar and The Truth」についてさえこれだけどうでもいいことをウィキペディアも見ずに書いてしまうくらいなんです。

そんなわけでいったん終わります。このままだと「わたしとBJC」みたいな青春振り返ってるジジイの作文になってしまいそうですので。
次からはなるべくコメント短めで色んな楽曲を紹介する形式にしたいと思います。
老害にだけはなりたくないのです。


ではまた、なるべく早めに。

「自分を構成する9枚」とかって自己顕示欲と承認欲求丸出しでちょっと苦笑いしながら視線をそらしちゃうよね、の巻。

今年一発目は何を書こうかずいぶん悩みました。漫画や小説も色々読んだし新しく知った音楽もある、前期アニメの不作っぷりや今期アニメの意外な豊作なんかについても書きたいことはあるのですが、何か最近流行ってるらしい「わたしを構成する9枚」を作ろうと思ってCD棚や音楽フォルダを漁っているうちに9枚ぐらいで済むわけがないという当たり前の事実に直面し、急遽とにかく好きなアルバムを紹介するだけというお茶を濁すような記事に相成りましたが、これがなんとも難産で、無茶苦茶時間がかかってしまいました。
だいぶ時間をドブに捨てたような気もしますが、自分でも忘れてるようなクソ懐かしい名盤を掘り出したりしたので、結果オーライということにしておきたい所存。

 ※一つ一つを何日かにわけてランダムに書いているので統一感のない文章になっていますが、その日のテンションとか色々でこんなことになりました。まあお察し下さい。
まあ始めましょう。まずはこれ。



METAL MOON

METAL MOON

中期ブランキー・ジェット・シティーの最初の一枚であり、永遠のマスターピース。(どこからが中期かは諸説あるかと思うけど、自分は『METAL MOON』から『SKUNK』までを中期として捉えている)
椎名林檎が「無人島に一枚だけもっていくCD」としてこのアルバムを挙げたことがあるが、自分も、まったく同感とは言えないけど同じくらいに思い入れのあるアルバム。
アートワーク、曲、歌詞、エンジニアリングなど、一枚のCDを構成する全ての要素が完璧な奇跡の作品。ミニアルバムでありながら、この後のキャリアでこれをこえるアルバムを出すことができないままブランキーは解散してしまった。そこもまたブランキーらしい未完成さというか不完全さを感じさせてくれる。
ジャジーなイントロから爆裂ロックンロールへの展開がドラマチックな1曲目『おまえが欲しい』、軽快さと重いグルーヴをさらっと両立させた2曲目『Sweet Milk Shake』、打って変わって叙情的な3曲目『ORANGE』、乾ききった情景をエモーショナルに歌い上げる4曲目『脱落』、どれも名曲だが、「ずっと続く海岸線」を「綺麗な首飾り」にたとえて「この世界を君にあげる」と歌われる5曲目『綺麗な首飾り』と、続く6曲目『鉄の月』の乾いた絶望に似た詩情はロックの歴史に残されるべきだと思う。



未完成

未完成

2013年に惜しくも亡くなられた吉村秀樹氏率いる伝説のスリーピースバンド、ブラッドサースティー・ブッチャーズの、これまたとんでもない名盤。
一般的にブッチャーズの名盤として語られることが多いのは'96年リリースの『Kocorono』の方だけど、自分がリアルタイムで最初に聴いたアルバムということでこっちを挙げておきます。
これのリリパあたりからライブにも何度も何度も足を運んだものです。ライブを観た回数が多いのはブランキー・ジェット・シティーが一番だけど、二番目はブッチャーズで、この2バンドは例外的にアホほど何回もライブに行きました。この当時めきめきと頭角を現していたナンバーガールイースタンユースといったバンドとのジョイントライブなんかも足を運んだのを覚えています。ナンバガイースタン目当ての客は暴れまくって鬱陶しいので、坊主憎けりゃ、ってやつで当時はその二つのバンドが大嫌いだったのも今となってはいい思い出です(笑)
これまた名曲揃いなんですが、個人的には6曲目『プールサイド』がダントツに好きです。メランコリーという感情をそのまま音楽に落とし込んだかのような大名曲。ナンバーガールがカバーしていましたが、悪くはない出来だけどオリジナルにはとうてい適わない。夏といえばこの曲でしょう。



千と千尋の神隠し サウンドトラック

千と千尋の神隠し サウンドトラック

これを読んでくれてるような方は僕がオタクであることをご存じだと思いますので、こんな流れをぶった切るような紹介の仕方も許して頂けるでしょう。たぶん。
アニメ映画『千と千尋の神隠し』のサウンドトラック。作曲はもちろん久石譲
先の二枚のアルバムとは認知度も段違いで、たとえば主題歌である『いつも何度でも』なんて、知らない人の方が少ないぐらいでしょう。なんでわざわざこんなメジャーなの挙げるのかと思われるかもしれませんが、それは僕がこの映画をただただ大好きだからという、それだけの理由です。
宮崎駿監督作品のサントラはもれなく大好きなんですが、ナウシカでもラピュタでもトトロでもなくこれを選んだのは、『千と千尋の神隠し』という映画が、まず現代的なな日常を下敷きにしてそこからファンタジーの世界へ入り込むことによって、日常とファンタジーの境目をはっきりと描いていて、そのせいでサントラの楽曲(音色とかも含めて)に異常なまでのノスタルジーを感じさせてくれるというのが大きいです。
トトロにもそういった詩情は感じられますが、あっちはもっとコミカルで楽しくて、わけがわからないんですよね。久石譲の楽曲はわかりやすいキャッチーさの部分が凄いと思うので、この一枚を選んだ次第。
導入であり主旋律として何度も繰り返されるメロディーをもった『あの夏へ』と、クライマックスへと至る溜めのように静かに紡がれる『6番目の駅』がお気に入りです。



灰羽連盟 サウンドトラック ハネノネ

灰羽連盟 サウンドトラック ハネノネ

僕が一番好きなイラストレーター、漫画家である安倍吉俊先生原案のアニメ『灰羽連盟』のサントラです。またアニメかよ!すいません。
いつでもどこでも言い散らかしているのでご存じの方もいるかもしれませんが、僕がすべてのアニメの中で一番好きなのが『灰羽連盟』です。キャラクターデザイン、動画、作画演出、キャスティング、音響など、僕がアニメに求めるもの全部が最高のレベルであり、たぶんこれをこえるアニメはこれからも出てこないでしょう。それくらい好きな作品です。
そしてそんな素晴らしい作品を、目立たず引っ込みすぎず支えるのが大谷幸さん作曲のこの劇判。
1話アヴァンで印象的に鳴らされる『Reflain Of Memory』や、牧歌的でありながらドラマティックな展開が素晴らしいOP曲の『Free Bird』、抽象的な作品のテーマを深く掘り下げた歌詞が印象的なED曲『Blue Flow』など、全曲聴き所満載なのですが、やっぱり最終曲『Ailes Grises』が一番好きです。イントロのサティーを思わせる無機質で乾燥したピアノの旋律が徐々に色を帯び始め、叙情的な主旋律に入る部分は、何度聴いても涙腺が緩みます。
ちなみにこのサントラCDは単体では廃盤になっており、中古以外で手に入れる方法はブルーレイBOX特典しかありません。そんなアホな!名盤やぞ!



ICO~霧の中の旋律~

ICO~霧の中の旋律~

灰羽連盟』が一番好きなアニメだということはすでに述べましたが、では一番好きなゲームは?と問われるなら何の迷いもなく自分はこれを挙げます。
ICO』が世界で一番素晴らしいゲームであると断言します。自分は今までこのゲームをおそらく100回以上クリアしていますが、未だに飽きていません。一度プレイし始めると夢中になってエンディングまで駆け抜けてしまって時間がかかるのでプレイしてないだけで、いまこの瞬間からプレイし始めたとしても一瞬で作品世界に引き込まれ、気づいたらエンディングの感動的な楽曲をぼろぼろ泣きながら聴いていることでしょう。さすがに仮にも定職を持っているいま、そんな無茶をすると仕事に響くのが怖いのでやっていませんが、もし何かあってまた無職に返り咲くことがあれば、まず最初にこのゲームを2周するでしょう。2周目は1周目で隠されてた伏線が少し回収されたり、隠し要素がたくさんあったりして無闇に楽しいんです。
そんなもの凄いゲームですが、サントラの方は正直かなり地味です。上に挙げた2作品と比べると退屈と言ってしまっても過言ではない。
しかし、単に楽曲の地味さや退屈さで劇判としての出来が左右されるわけではないのが、アニメやゲームのサントラの面白さです。
ICO』というゲームは…うーん、簡単には説明できない世界観を持った作品なのですが、とにかく音の隙間が多い作りになっていて、主人公を操作せずに立ちっぱなしにさせていると、おそらくフィールドレコーディングされたであろうやたら臨場感のある、風が廃墟の建物を吹き抜ける音が、静かに静かに聞こえるだけだったりします。
そもそも4分半あるED曲を入れても全部で25分ほどのサントラですから、ゲーム中ほとんど音楽が鳴ってない、鳴っているときも1分ほどのミニマルな曲をずっとループしてるだけだったりなんですが、これを以て手抜きと言う人間がもしいたら「わかってねえ!」と説教します。
作品世界に流れるゆったりとした空気を、現代音楽やポストロック、ミニマルミュージックを通過した楽曲でひっそりと支え、そしてクライマックスでは先述の歌入りED曲『ICO -You Were There-』でそれまでの静謐さを覆し、淡々としながらも切ないメロディーで一気にプレイヤーの涙腺に襲いかかる。恐るべきやり口です。
楽曲の質だけなら『灰羽連盟』の方が勝っているでしょうが、サントラアルバムとしてのトータリティーでは『ICO』の圧勝だと思っています。


 ※『ICO』には制作チームのほとんどを同じくする『ワンダと巨像』という続編というか世界観を共有するゲームがあるのですが、そちらの劇判を手がけているのがこの記事でも取り上げた『灰羽連盟』の大谷幸さんです。(『ICO』の方は大島ミチルさん)
 『ICO』と『灰羽連盟』に何か説明しがたい共通点を感じてしまっている僕にはこれが偶然とは思えません。
 なにかしらのスタッフの思い入れにより、『ICO』の続編の劇判は『灰羽連盟』の大谷幸さんに決められたのだと勝手に信じています。



タンタン・テラピー

タンタン・テラピー

一気に知名度の低いアルバムですが、実はこれの1曲目『バイババビンバ』は「ろうきん」のTVCMソングとして起用されたことがあるので、テニスコーツというグループは知らなくても、もしかしたらどこかで聴いたことがあると感じるかもしれません。
テニスコーツは、常に特異な立ち位置を選び続けていることで知られる、二人組のグループです。ヴォーカリストさやとギタリスト植野隆司のみのデュオですが、テニスコーツ単体名義としてリリースする音源は20年近くというキャリアの長さの割りに少なく、2016年現在でたった4枚のフルアルバムしか出していません(そのうち2枚はPt.1、Pt2に分かれる実質上1つのアルバム)。しかし国内外の様々なアーティストとのコラボによってリリースされた音源は20枚を越える。そのことだけでもテニスコーツの特異さを少しはわかって頂けると思います。
ただ、こういうことをやっている人たちに特有の、アルバム個々の出来不出来がかなり激しいという一面も持っており、正直言ってアルバムとして特に高い評価を彼らに対してつけていません。しかしこのアルバム、スウェーデンのバンドTapeとのコラボによって作り出された『タンタンテラピー』と、あとテニスコーツ名義ではありませんが、2007年に亡くなったDJ KLOCKとのユニットCACOYによる『Human Is Music』というアルバム、この2枚だけは格別の思い入れがあります。アルバムとしてのトータルな出来は正直CACOYの作品の方が上だと思っていますが、この『タンタンテラピー』にはそんなことを覆して余りある超弩級の名曲が収録されているのです。
テニスコーツをある程度ご存じの方はすぐに思い当たるでしょう。2曲目に収録されている『嗚咽と歓喜の名乗り歌』です。シンプルなピアノのイントロに歌が乗り、美しいアコースティックギターアルペジオが紡ぎ出され、そしておそらくはTapeによる有機的でメランコリックなノイズが重なり、楽曲は次第に熱を帯びていきます。とはいえ楽曲全体を見渡せば、極端なダイナミクスがあるわけでもなく、一聴するだけでは静かで起伏の乏しい曲と思われるかもしれません。
この曲を特別たらしめているのは歌詞です。歌詞の内容を分析するなんて事は無粋だと思うので細かな言及は避けますが、これは本当に凄い歌詞です。自分もバンドをやっていた頃は歌詞を書き、最近になって始めたラップミュージックではリリックも書いていますが、たとえ今から生きていくことの他に何もせず歌詞を書き続けたとしてもこの曲の歌詞を越えることはできないでしょう。自信過剰なところのある自分がこんなことを認めるのは滅多にないことです。
世界で一番美しい歌詞をもつ楽曲が収録されているというだけで、『タンタンテラピー』は本当に特別なアルバムです。
死ぬまで聴き続け、機会があればライブにも足を運び、そしてできることなら僕が死んだとき、葬儀の場でこのアルバムが鳴っていて欲しいと思います。



To Everybody

To Everybody

このバンド90 Day Menも、結成されてから20年近く経ちますが、寡作にも程があるだろうというリリースの少なさ。フルアルバムはたった3枚。しかも各アルバムの収録曲は多くても8曲。EPや何かも含めても、40曲ほどしか持ち曲がありません。ライブには行ったことがないのでライブでしか演奏しない曲なんかも存在するのかもしれませんが、そもそも日本語のwikiが存在しないような日本ではかなりマイナーなバンドなので、情報自体がほとんど入ってきません。
僕がこのバンドを知ったきっかけは、うろ覚えではありますが、たしか雑誌「COOKIE SCENE」のディスクレビューだったと記憶しています。まずジャケットの格好良さに一目惚れし、レビューでもべた褒めされていたことから、次の日にレコ屋巡りをして購入しました。巡るって言っても、タワレコHMVで探しても見つからなくて、ダメ元で立ち寄ったタイムボムであっさり見つけちゃったんですが。あの頃のタイムボムはポストロック系メジャーマイナー関わらず充実していたので、最初にタイムボムに行っておけば簡単に見つけられてたはずなのに!…という後悔はしませんでした。買えたことが嬉しすぎて、普段なら他にもCDを物色して5,6枚は買って帰るコースだったんですが、一刻も早くこのアルバム『To Everybody』を聴きたくて急いで帰宅したことを覚えています。
帰宅するなりプレイヤーにCDをぶち込んで聴き始め、1曲目『I've Got Designs On You』のイントロが耳に入ってくると「あれ、ちょっと期待してたのと違うかも…」というガッカリ感が僕を襲いました。このバンドにはボーカルを担当するメンバーが二人いるのですが、その内の1人、Robert Loweの歌声が粘りのある高音で、極端に言えばちょっと生理的に受け付けない感じだったのです。
あいたー、外したかー、と思いながら1曲目を聴いていると、途中からやたらと渋い低音のハードボイルドな歌が聞こえてきて、おおっ!と身を乗り出しました。もう一人のヴォーカリストBrian Caseの、ボソボソとした語りのようでいながら美しいメロディーを奏でるスタイルに、僕は完全にやられてしまったのです。
そして2曲目の『last night, a dj save my life 』、ブライアンが終始リードボーカルを務めるこの美しい曲で完全にノックアウトされ、一発でこのバンドの虜になりました。買える音源はすべて手に入れ、かなり待たされての3rdアルバム『Panda Park』は予約して買いました。これの先行シングル『Too Late Or Too Dead』がこれまた凄まじい名曲で、このアルバムも期待は大きかったんですが、シングル以外の曲がいまいち期待はずれで、今のところ僕にとってのこのバンドの最高傑作は『To Everybody』一択です。ちなみにロバート・ロウの声も今では味があって悪くないと思うようになりました。
ギター、ベース、ドラム、ピアノ、という簡素な構成でありながら、ポスト・ハードコアの影響が伺えるかなり複雑怪奇なアンサンブルを奏でるサウンドは、けっして万人受けはしないでしょうが、今も自分の好きなロックバンドベスト10には必ず食い込む、大好きな大好きなバンドです。一時解散説が流れたときはかなり落ち込みましたが、どうやらバンドは今も続いているようです。10年以上リリースがありませんが、いつか物凄い名盤をひっさげて帰ってくることを期待しています。


 ※と思いきやどうやら本当に解散した説もあるようで、真相は藪の中です。メンバーのソロプロジェクトも全然情報が入ってこない…



THE LAST ROMANCE

THE LAST ROMANCE

Arab Strapというバンドは、たとえば先ほど挙げた90 DAY MENに比べると知名度はかなり高い(Vo.のエイダンがロッキングオンでコラム書いてたりしたし)が、名前を知っていても、彼らがどんな音楽をやっているのか知らない人はかなり多いと思う。少しは音楽を知っている音楽スノッブでも、「あの地味でチープな雰囲気バンドでしょ。ベルセバのおかげでちょっと売れてよかったね」ぐらいにしか思われていない。たしかにTeenage Fun Club、Bell & Sebastian、MOGWAIといった同郷グラスゴーのバンドと比較すると、見た目汚いしやってること暗くて地味だし、リリカルといえばリリカルでハードボイルドだけど、見ようによってはただ延々と愚痴をこぼしてるだけのような歌詞の内容も、ほとんどの人にとってはマイナスイメージにしかならないだろう。
だがそれがどうした。俺は自分を負け犬と名乗るぐらいだから、こういうひねくれて地味で暗いバンドには必要以上に感情移入してしまうのだ。リリース当時少し話題になっていた1stアルバムを聴いて、これは自分の音楽だと感じた。自意識とルサンチマンとナルシズムとをこじらせるだけこじらせ、それでも自らの思う「美しい音楽」からだけは目を反らすことができなかった男が創り出した新しい音楽。先にやられてしまった、とすら感じた。悔しかった。長いこと音楽活動を行っていなかった自分がラップミュージックを始める切っ掛けになった1つの要因にもなった。(ちなみにシュタインズ・ゲートをモチーフにした自分のラップ曲は、このバンドのメンバーのソロアルバムの一曲をサンプリングして作ったトラックが基になっている)
それだけ思い入れがあるバンドではあるが、では特に思い入れの強いアルバムを1枚挙げろ、と言われると、実は少し困ってしまう。シンプルにも程がある安っぽい打ち込みのビート(1stアルバムは生音っぽいドラムだったがクソシンプルなことに変わりはない)に、センスは感じるがこれまたシンプルきわまりないギター、シンセなどのウワモノ、いっそポエトリーリーディングと言ってしまったほうが近い(というか初期は本当にポエトリーそのものだった。徐々に歌っぽくなったので気づきにくいが、改めて初期の音源を聴き直すとメロディーなどほぼ歌っていない)ように思えすらする起伏のない歌。スタジオアルバムは、程度の差はあれど、ほとんどそういう作品ばかりだ。アルバムごとに少しずつ進化はしていたのだが、その進化に驚き賞賛していたのは本当に一部のファンだけだったと思う。
しかしライブアルバムは違う。緊張感溢れる生音の演奏(スキル水準も純粋に高い)によるクリーントーンと爆音のダイナミクスが凄まじいその音塊は、所謂ポストロックと呼ばれるジャンルが好きな音楽ファンなら垂涎ものだろう。歌は相変わらずボソボソとあるのかないのかギリギリぐらいのメロディーでしかないが、演奏とのギャップによってそれすらも味として昇華してしまっている。
というわけなのでアラブ・ストラップで1枚というなら初期のライブアルバム『Mad For Sadness』を挙げようかと思ったのだが、今回のブログで紹介するアルバムはできるだけライブアルバムとベスト盤は避けたかった。
ので、彼らのラストアルバムにしてレコーディングに初めて豪華な生演奏を用いたアルバム『Last Romance』を紹介させて頂く運びとなった。おそらく一番売れたデビューシングル『First Big Weekend』もバンドを代表する名曲『Shy Retirer』も、個人的に大好きな『Cherubs』や『Fucking Little Bustard』も収録されていないが、生ドラムをフィーチャーした最も普通のロックバンドっぽいアルバムである。おそらく彼らはスタジオアルバムとライブとのギャップに自分たちも疑問を抱いていたのだろう。1つのアイデンティティーとして認知されていた打ち込みドラムに象徴される地味さ、それだけでいいのかと。例え不評であろうとも、生の自分たちを切り取ったアルバムを最後に作っておかねばならないのではないのかと。そんな葛藤があったのだろう。どうやら制作前に次を最後のアルバムにして解散するという目論見があったようなので、そんな思いも格別に強かったのではないか。
というのは自分の妄想にすぎないものではあるが、ある程度的を射ているのではないかと思っている。これまでのイメージを一新させるかのような「普通のロックバンド」らしい演奏、アレンジ、今までになくメロディーを歌うボーカル。ドラマティックな曲展開、そして明るさ。
「らしさ」という意味では全アルバム中最もアラブ・ストラップらしくない。実際に自分もレコ屋でこのアルバムを試聴したときには少なからず落胆した。日和ったな、とすら思ってしまった。それまでのアルバムはすべてリリース直後に購入していたが、このアルバムだけは3ヶ月ほどためらった挙げ句タワレコの貯めてあったポイントで購入したほどだった。そして義理のように何回かアルバムを通して聴いているうちに、バンドの解散が発表された。そのときやっとこのアルバムの音の意図、タイトルの意味に気づいて僕は泣いた。熱烈なファンを自称していながら彼らの最後の覚悟を汲み取ってやれなかったことが悲しかった。
それから繰り返し繰り返しこのアルバムを聴き込み、今ではスタジオアルバム中でもっとも好きな作品である。キャッチーとすら言えてしまう1曲目『Stink』、前述の代表曲『Shy Retirer』のアップデート版といった趣の『Speed Date』、そしてホーンセクションを取り入れた最後のお祭り的な狂騒感を感じさせるラスト・トラック『There Is No Ending』が聴き所ではあるが、はっきり言って捨て曲無し、全部名曲。大好きなバンドのラストアルバムだから大いにひいき目はあるだろうが、そこは大目に見て頂きたい。
僕はそれだけアラブ・ストラップを愛していたのだ。


といったところで長くなりすぎたので後編に続きます。
いつになるかは未定ですが…

Japan Post Group Kills me

毎日毎日毎日毎日アホみたいに疲れて帰ってきて、休日もその疲れを癒やすためにだらだらと寝散らかす、という生活が一ヶ月ほど続いています。「マージナル・オペレーション」がクソ面白かったり、clavis師匠の「作る・アマガミSSテレビ」で腹抱えて爆笑したり、色々と今年のエポックな体験もしているのですが、なにせ仕事がガンガンに僕のケツを叩くので、いくらインプットが多くてもアウトプットしてる暇などないのです。

でもこれだけは紹介しておきたい、という作品をいくつか。
まずはこれ。


「世界は喜劇だ。そうあるべきなんだ」


神=王雀孫のまさかのシリーズ第二巻(申し訳ないけど絶対出ないと思ってた)。これに関しては言いたいことが多すぎて何から言えばいいのかさっぱりわからん。わからなすぎて批評もクソもない、感想しか言えないといういつもの思い入れ強すぎパターン。
ただ一つ言いたいのは、2巻は1巻の7倍ぐらい面白かったということ。そして次巻はさらにその7倍ぐらい面白くなりそうだと言うこと。なにせ「おれつば」のファルコン成分強めということなので期待しかない。なにせ俺はファルコンが好きすぎてファルコン視点の歌詞を描いてラップした程度に痛い「おれつば」信者なのである。期待するなと言われてもそりゃ無茶だ。
あと、詳しくは述べませんが、僕の言葉が神に届いていたということがここ5年ぐらいで一番うれしかった。
音楽やっててよかった。



「お前の闇を救えるのは、“われわれ”だけだ。少し“われわれ”について話そう。“われわれ”のなすべきこと、その目的について」


名作「車輪の国、向日葵の少女」や傑作「G線上の魔王」などのゲームシナリオでその地位を確立した風雲児、るーすぼーいのライトノベルデビュー作。とは言ってもるーすぼーいが風雲児だったのは先述の「G線上の魔王」辺りまでで、色々情報だけは聞こえてくるけどいま何をやってるのか(書いてるのか)ユーザーにはさっぱりわからん、といった立ち位置の人だった。今年リリースされた「僕の一人戦争」はヴォネガットの「スローターハウス5」をるーすぼーい風に翻案したかのような作風で、つまらなくはなかったが、「るーすぼーい is Back !!」と大声を出せるほどの出来ではなかった(個人的にね)。ロミオも丸戸も王雀孫も形は違えど奮戦していたとき、スランプだったのか何なのか、静観を決め込んでいた(ように見えた)のもマイナスイメージだった。
というところでこれ、「白蝶記」のリリースである。
一読して、首を傾げた。あれ、こんなもんかやっぱり。るーすぼーい枯れちゃったのかな。いやしかしそれにしては何か何処かひっかかる。きっとこれは読み飛ばしてはいけない作品だ、何度か読んでやっと何かわかったような気がする作品だ、と読み進めるたびにそういう確信が深まっていった。
そしてあのラストである。
やられた、と思った。
何の説明もない、一見すればただの次巻への伏線であるかのような会話で作品は幕を閉じる。実際Amazonなんかのレビューを見ると、「ラストが次巻への露骨な含みで萎えた」だとかいう意見が多いようである。だが僕に言わせるとそれこそ的外れな意見である。この作品はあのラストのシークエンスで完全に完結している。唐辺葉介の「PSYCHE」がそうであったかのように、余計な物など何もない。ある必要が無い。
ひさしぶりに「ライトノベルの皮を被った何か」を読まされた気がした。とか言っててサラッと続巻が出るかもしれないが、その時は自分がるーすぼーいを過大評価したというだけの話である。

まあ続巻どうのこうのは置いておいて、るーすぼーいという作家は自分の知る限り(「その横顔を見つめてしまう」ぐらいからしか知らないのだが)常に「当たり前にある現状」についての疑問を投げかけてきた作家だった。反体制的と言ってしまってもいいぐらいには。るーすぼーい作品の主人公、ヒロインたちは常に現状に不満を持ち、何かを壊したい、どこかへ行ってしまいたい、という鬱屈を抱えた人物像として描かれてきた。彼らは、あるいはその現実に妥協し、あるいはその現実から逃れようとし、あるいは表現という形で世界への疑問を投げかけてきた。結果として彼らは逃れられないことを知り、現実に妥協することも多いのだが、自分に言わせると結果は問題ではない。「抗う」という姿勢こそが、彼らをるーすぼーい作品の登場人物であり、るーすぼーい自身の思想を体現させるためのキャラクタたらしめていたのだ。「最初から疑問すら抱かなかった」と「抗ったが自分の力ではどうにもならなかった」とでは0と1ぐらい違う。
そういった「るーすぼーい的なキャラメイキング」は今作でも十二分に発揮されている。なにせ主人公たちには逃げるべき場所、原点すら最初からない。逃げ出したい、逃げ出さねば、ただそういった想いが空回りするだけで、現実的な着地点は一見どこにもない。しかし物語が進むにつれ、あるぼんやりとした光が灯される。そして同時に現れる深い深い闇。
「逃避」だけに拘るのなら、彼らはどちらの方へ向かっていてもおかしくはなかったはずである。
だがそう、るーすぼーい作品においてなら、いくらその先の闇を強烈に予感させるものであっても、彼らは(特に彼は)一瞬のきらめきを摑むために駈けだし、そして辿りつくのだ。
光とも闇ともしれぬ、未知の場所へと。
叙述トリックやどんでん返しなんかではなく、自分はるーすぼーいのこういう所に惹かれて、目を離せなくなっていたのだと、強く再確認させてくれた作品だった。

Breed

よほどのことがない限り、今年のNO.1読書体験はこれで決定でしょう。つい最近友人に勧められて読んだ「子供はわかってあげない
も無茶苦茶よかったのですが、このインパクトは越えられません。
そう、あの漫画の待望の第二巻!


施川ユウキバーナード嬢曰く。」2

「本を開くたび閉じるたび
 私は世界から世界へ移動する
 時間も天気も関係ない
 すごいことだ
 異世界から戻ったあと
 私はときどき高ぶって
 そのまま走り出したくなる」


読書家に見られたくて仕方ない少女、町田さわ子(自称バーナード嬢)は、今日も今日とて未読の本を既読であるかのようにみせかけることにのみ心を砕くのでした。
ただそれだけの漫画です。それだけなのにこんなにも面白いのは、ひとえに施川先生の本への愛ゆえなのでしょう。アシモフ、クラーク、ハインラインブラッドベリティプトリー、ディック、シモンズ、ヴォネガット、コーニィ、イーガン、ピンチョン、ホーガン、チャン、レム、ウェルズ、オーウェル、バラード、マッカーシー、パラニューク、まだまだあるけどひとまず海外SF作家をちょこっと挙げるだけでこの量。ミステリや純文学はSFに比べるとあまり登場しませんが、それでも三大奇書プルースト、ガルシアマルケスといった難解どころまで押さえてあるところから鑑みるに、相当の量読んでらっしゃるようです。
普通こういうのをやるとひけらかしっぷりが嫌味に見えてしまうものなのですが(似たような傾向の漫画「今日のハヤカワさん」ですら少し鼻につく部分がありました。大好きな漫画なんですが)、文字通り等身大の主人公、町田さわ子のアホの子っぷりがあるだけでこんなに親しみやすくなるんですね。キャラクタ造形ってのはこうあるべきだと力説してしまいたくなります。さわ子の友人、SF好きの神林さんやシャーロキアンの長谷川さん、そしてさわ子に想いを寄せる(?)遠藤君といった脇役のキャラも存分に立っていて、普通にキャラクタものとしても楽しめるかと思います。
さすがに登場する書名、作家名をまったく知らない人には楽しめないかも知れませんが、そんな日本人多分ほとんど居ないでしょう。漱石、太宰、宮沢賢治ぐらいなら教科書で名前見たことあるなーというレベルでも(たぶん)十分面白い。
そしてもちろん知っていれば知っているほど面白い。SF好きがディックに対して抱いてしまう「なんか特別」感とか、太宰を語る著名人に対する妙な上から目線とか、村上春樹に対してどういうスタンスを取るべきか問題とか。読書家と読書家を気取っている人々にとって究極のあるあるパターンなんじゃないでしょうか。
かくいう自分も今作に登場する作品の半分も読んでいない(叙述トリック)のですが、1巻から通して読んで37回ぐらい爆笑しました。


※上で紹介した一文は長谷川さんが雨宿りしながら伊藤計劃×円城塔の「屍者の帝国」を読むシーンで独白する台詞です。作風に見合わない本への愛に溢れた言葉ですが、「ネタ」という形で照れ隠しばかりしている施川先生の本音が漏れてしまっているみたいで、僕が一番好きなシーンです。

たとえば僕が死んでも

どうも負け犬です。最近記憶力の衰えがガチでえらいことなってまして、せめてこれだけは忘れてはならない、という作品をアーカイブするために少し書きます。備忘録なので別に読んで頂かなくてけっこうです。


麻耶雄嵩 「夏と冬の奏鳴曲」

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)

「おれは、老いたライオンを目がけて弧を描きながら舞い降りる、選ばれた禿鷹みたいだ」


 推理小説(ミステリ)の世界で1990年頃に勃発した「新本格ムーヴメント」。
 その第二世代の筆頭として挙げられる作家、麻耶雄嵩の、第二作にして最高傑作(と言われています)。
 そもそも「新本格」とカテゴライズされる作品には、少なからずアンチミステリとしての側面が備わっており、
 それはつまり日本のミステリというものが本質的にアンチミステリなのである、とかそういう話は笠井潔さんあたりが
 散々語っておられるので、ここでは単に小説としての「夏と冬の奏鳴曲」を語りたいと思います。
 まずこのタイトル。
 当時高校生の僕などはこの厨二臭にクソやられてしまったものですが、およそ10年後に韓国ドラマで
 「冬のソナタ」という例のアレが大ヒットしてしまい、今となっては少々気恥ずかしい思いを抱かせてしまう、
 まあなんとも言えないタイトルに成り下がってしまいました。
 というのはどうでもよくて、とりあえず僕のこの作品への愛を臆面も無く語ってしまいましょう。
 はい、ここまでが前振りです。長いですね。ぜひ読み飛ばして下さい。
 では……という感じで語り始めたいのですが、この作品を語るには、ミステリ的にもアンチミステリ的にも、
 ネタバレが不可欠なものにならざるを得ないのです。ほとんどのミステリ作品がそうだったりしますが、これは特にずば抜けてネタバレ無しには語りにくい。なので、無茶苦茶好きな小説なんですが、サラッと流して比較論とかでお茶を濁します。
 さて本題。この作品には三作の続編と一作の姉妹編が存在します。
 「翼ある闇」、「痾」、「あいにくの雨で」、「木製の王子」という四作がそれに該当するのですが、
 ここではとりあえず「あいにくの雨で」は無視します。好き嫌いの問題ではなく、「あいにくの雨で」は、
 他の三作とは決定的に異なる部分があって、要するに「夏と冬の奏鳴曲」の語り部であり主人公である
 如月烏有が登場しないのです。
 厳密に言えば「翼ある闇」にも烏有さんは登場しませんが、「翼ある闇」と時系列をほぼ同じくする作品が
 如月烏有シリーズに存在するので、まったく個人的なより分けですが、「翼ある闇」は「如月烏有シリーズ」の
 一つであると僕は捉えています。
 
 さて、そうやって「如月烏有シリーズ」を定義づけてみて、だから何なんだと問われれば、
 つまりこのシリーズは、たとえば大江健三郎の「個人的な体験」や、島田雅彦の各作品などに通じるところのある、
 ひとことで言ってしまえば「アンチ・ビルドゥングス・ロマン」の系譜に連なる作品なのだと僕は思うのです。
 ビルドゥングス何ちゃらの意味からして理解できないという方は取りあえずググってください。
 インターネットは便利です。ネットは広大です。
 …はい!ビルドゥングスロマンをわかって頂けた体で話を続けます。
 かなりの憶測も混じりますが、大江健三郎が「個人的な体験」を書いたときに主題に置いたであろう感情は、
 「はたして自分は(世間一般で言われる)成長というものをどう捉えているのだろうか?」という、
 現代作家としてはしごくまっとうな疑問であったのではないかと思われます。
 そして「個人的な体験」を読めばわかりますが、語り部である鳥(バード)は無意識的にこの疑問を強く抱いている
 人間として描かれています。バードにとって成長とは「大人社会への仲間入り」です。
 ですがバードの恋人が身ごもっているのは身体障害児。このハンデを背負ってまで大人になる、ということに
 バードは強い違和感を抱くのですが、それならば中絶させてしまえ、というところまでは(考えはしても)
 踏み切ることができない。成長する(大人になる)ことへの忌避感が生じつつも、バードはそんな自分への
 嫌悪感も捨てきれず、ただただ流されるままに苦悩する。
 「個人的な体験」という小説は、つまりそういう作品です。アンチ・ビルドゥングスであり、文学ですね。
 だけどバードの持つモラルと個人的な感情の葛藤がものすごく現代的で、それゆえに名作と賞賛される作品であります。
 
 さてさて、ようやく如月烏有シリーズを語る土壌ができました。
 ここでブチ上げてしまいますが、如月烏有=鳥(バード)なんですね。
 バードに通ずる「烏」という文字が主人公の名前に使われているのは偶然ではないのです(多分)。
 「烏有」という彼の名が「何もない」ことを表す言葉であることなんてガン無視です。
 烏有はバードなんです!
 …と、ここまで無理押しして自説を展開させようとするのにはそれなりの根拠がありまして、つまりそれは
 さきほど述べた「如月烏有シリーズ」と「個人的な体験」に共通するアンチ・ビルドゥングスとしての側面なのです。
 「夏と冬のソナタ」を初めとするシリーズ内を通して、如月烏有は、常に現代的モラトリアムな青年として描写されます。
 そんな彼なのに、バードの恋人が身体障害児を身ごもったように、如月烏有もまたその成長の過程で洒落にならないハンデ
(というよりトラウマ)を背負わされています。さらに「夏と冬の奏鳴曲」作中に於いて、トラウマなんてもんじゃない、
 もっとえぐいものの片鱗を味わったぜ…となるわけです。
 だけど、いくらアンチ・ビルドゥングスとはいえ、そこはミステリというエンターテインメントの世界。
 如月烏有は、かなりの力業ではありますが、そのトラウマを乗り越え、物語をハッピーエンドへ導くのです。
 このあたりの描写はメンタルがごっそり削られて、読んでいてしんどい部分ではありますが、
 物語としては核心に踏み込んでいるので、もうここまで来たら最後まで読まざるを得ないと思わせてしまうところでもあります。
 ここまでミステリ作品としてのトリックなんかにはまったく触れてきませんでしたが、終盤の超トリックなんかも
 手伝って、クライマックス感の演出が半端ねえわけです。
 そういった物語としてのカタルシスに、あれよあれよと身を任せていると、
 物語は実は結構あっさり幕を閉じます(ある一文を除いて)。
 ここで終わっていれば、アンチ・ビルドゥングスの側面も持ちながら、実は正統派ビルドゥングスロマンの名作として
 後世に語り継がれていたかもしれませんが…
 この先は語りません。ぜひ最後まで読んで下さい。
 そして、もしこの物語を気に入ってしまったなら、続編である「痾」、「木製の王子」を読むことをオススメします。
 作者のデビュー作であり、気になるところで挟まれるエピソードの元ネタである「翼ある闇」に手をつけるのもいいでしょう。
 そして最後に、姉妹編というかむしろスピンオフ作品である「あいにくの雨で」を読むのもあなたの自由です。
 

 ※島田雅彦についても関連づけて語りたかったのですが、これ以上とっちらかった文章でお目汚しするのは気が引けたので…
  機会があればもう少し深く、文学としての麻耶雄嵩について語りたいと思います。

 
 ※※「夏と冬の奏鳴曲」は実はキャラクタ小説としてもものすごくポテンシャルが高くて、ヒロインポジションに居る「舞奈桐璃」とい
 うキャラは、マイルドヤンキーにしてオタサーの姫、それでいて主人公の幼なじみでありツンデレ妹的ポジションという、いわゆる
 「萌え要素」すべてを内包した反則的ポジションにいる存在として描かれています。
 そんな娘いていたらミステリとか言ってる場合じゃないやん!完全にラノベやん!
 もしそんな反論があるならば答えます。
「この作品は狭義の意味で読み解くならば現在では「ライトノベル」として扱われるかも知れませんが、そんなことをものともせずにミス
 テリマインドに溢れた超傑作なのであります」と。
 個人的オールタイムミステリベスト1。


山口雅也 「奇遇」

奇偶

奇偶

「これは絵空事ではない。私は」


「ミステリ界に於ける5つめの奇書」、と呼ばれる、文字通りの怪作。ちなみにまずミステリ界には「3大奇書」と定義づけられている作品がありまして、それは「ドグラ・マグラ」「黒死館殺人事件」「虚無への供物」ですね。
そこをもし、あえて4大奇書とするならば、竹本健治匣の中の失楽」が加えられるだろうと言われていました。それから10年余、現れてしまいました。5大奇書にその名を連ねるべき作品が。
発表からけっこう時間が経っていますし、いま読むと、例の「3大奇書」ほどではなくても、若干の古さを感じてしまうかもしれません。それでも読んで欲しい、歴史に名を残すべき作品です。私小説でありメタフィクションでありメタミステリ。かの筒井康隆の「パプリカ」すら及ばない次元だと自分は思っています。メタフィクション好きは読んでみるべきじゃないでしょうか。


井上夢人 「メドゥサ、鏡をごらん」

メドゥサ、鏡をごらん (講談社文庫)

メドゥサ、鏡をごらん (講談社文庫)

「おまえたち、みんな死んでしまえ」


メタミステリと本格ミステリを融合させた偉人、井上夢人の最大の問題作と言われる作品です。ホラー風味をも内包しているので、怖い話が嫌いなら読まない方がいいかと思われます。これも○大奇書に加えられてもいいんではないかと思えるほどにミステリ界への挑戦状を叩きつけています。この作品、僕は買う前に書店で全部立ち読みで読破してしまったんですが、それでも買いました。それほどの引力を持ち合わせている、ミステリにしてアンチミステリの大傑作。
井上夢人といえば処女作「ダレカガナカニイル…」(これもアンチミステリの傑作でしたが))とか、エンターテインメントの極地に立ち戻った「オルファクトグラム」などが注目されがちですが、井上夢人文体がよっぽど気にくわないというのでなければ、全ミステリファン、アンチミステリファンにとって必読の書であると言い切ってしまいます。今まで読んだミステリ作品の中で、麻耶雄嵩の「夏と冬の奏鳴曲」に、もしかしたら肩を並べられ得るかもしれない唯一の作品です。


島田荘司 「異邦の騎士」

「陽気なやつでも聴こうよ」


僕が現代ミステリにはまった最大の切っ掛けがこの作品でした。ミステリなのでネタバレは避けます。今読むとベタな感じもあるんですが、ルサンチマンを内包したロマンティシズムを描写した小説としては未だに最高峰といえる小説です。新本格ミステリの原典にして誰もが越えられない壁として君臨し続ける作品。エロゲ界におけるクロスチャンネル、というと言いすぎかも知れませんが…

サブリミナル・ミュージック・イン・マイ・ブレイン状態

毎日に喜びを見いだせません。
機械のように働いて飯食って寝てまた働いています。
これではいかん、いつも唇には歌を、と思い仕事中にもがんがんR.E.MやJellyfishなんかの懐かしい歌を口ずさんでいます。今期はあまりアニメを見ていないせいか、アニソンは少なめです。たまにシドニアのOPを高らかに歌い上げてたりはします。
そういう音楽にすがるような生き方をしていてふと思い出したのですが、みなさんにはこういう経験はないでしょうか?
たしかに知っているが思い出せない曲。なんならサビぐらいは口ずさめる、歌詞も断片的に覚えている、なのに曲名はおろかアーティストすらまったく思い出せない。で、思い出せないまま忘れてしまえるならそこまでのことで済むんだろうけど、なぜか忘れられずに何年も頭のどこかに居座り続けていて、なにかの拍子にメロディを思い出す。でもやっぱり誰のなんという曲なのか思い出せない。うろ覚えの曲名を検索しても、SHAZAMなんかのメロディ検索アプリで歌ってみても、ぜんぜんピンと来ない。もちろん自分が作った曲でもない。
たとえば味覚であったり嗅覚であったりがきっかけになって突然その曲を思い出す、などというプルーストの小説みたいなことが本当にあります。別に紅茶とマドレーヌでなくてもいい。
雨上がりのアスファルトの匂い。
夏の日のアイスキャンディのガリッとした冷たさ。
ひさしぶりに飲むジンジャーエールの後味。
たぶん単体ではないんでしょう。こういう季節で天気で体調で心境で、など様々なファクターが組み合わさって「ある曲」を思い出させる状況を作り上げるのだと思います。そこにどういった脳のメカニズムが働いているのか、ということに僕はあまり興味をいだけません。どうでもいいです。
ただ、そういう状況に陥ったとき、なぜだかものすごく感動します。その「ある曲」が、どうしてそういう状況になるまで思い出せなかったのか不思議なくらい、自分にとって大切な曲であることが多いからだと思います。あのときあの曲を聴いていなかったら今の自分はなかっただろうな、と思えるほどに大切なその曲をそれまで思い出せなかった自分への忸怩たる思いもありますが、8割方はポジティブな感動をもたらしてくれます。思い出させてくれてありがとう、なんて誰にとも知れずお礼を言いたくなったりもします。神はいないので神様ありがとうとは思いませんが。


さて、前置きが長くなりましたが、僕はこういう現象を「サブリミナル・ミュージック・イン・マイ・ブレイン状態」と呼んでいます。わかる人にはわかると思いますが、ナンバーガールの「サッポロ OMOIDE IN MY HEAD状態」というライブアルバムのタイトルと、あと色々何かしらからちょっぱってきた命名です。

ライヴ・アルバム ?サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態

ライヴ・アルバム ?サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態

まあ「名前などどうでもいい@寄生獣」という名言もあります。この際ネーミングはさておいてください。
要するに今回は、僕が過去に「サブリミナル・ミュージック・イン・マイ・ブレイン状態」のおかげで思い出した名曲を少し紹介してみようかという、ただそれだけの思いつきです。
田中ロミオの「犬と魔法のファンタジー」についてはたぶん次回書きます。


「世界でもっとも重要なロックバンド」と言われたこともある、アメリカの至宝R.E.Mの、おそらく日本ではトップ3に入るくらい有名な曲です。日本で有名なのは、村上春樹が著書の中でこの曲に言及しているからという理由もありますが、ここではとりあえず無視します。村上春樹が大嫌いだからです。お前みたいなもんにR.E.Mの何がわかんねん、とすら思います。
さておき、この曲はR.E.Mが2001年にリリースしたアルバム「REVEAL」に収録されていて、シングルカットされたのかどうかは思い出せませんが、手の込んだPVとこれまでにないポップな曲調により、日本ではいまいちパッとしなかったR.E.Mというバンドを一般的に知らしめた一助であったと記憶しております。一時はFMラジオなんかでもアホみたいにヘビーローテーションされていました。
でも僕は「REVEAL」というアルバムが好きになれず、この曲もまあいい曲だけどR.E.Mらしくないな、あんまり好きになれないな、ぐらいにしか思っていませんでした。前作「UP」があまりに地味なアルバムで、ああもう枯れちゃったのかこのバンド、なんて思っていたせいもあったのでしょう。
そんなわけでずっと記憶の片隅にしかなかったこの曲をふと思い出したのは、2003年頃、大阪アメ村の商店街をぶらぶらと歩いていた時のことでした。その当時の友人が働いていた服屋にふらっと立ち寄って、何を探すでもなく、たぶんTシャツか何かを物色していたとき、この曲のサビが耳に飛び込んできたのです。未だにどうしてなのかわかりませんが、ほとんど膝から崩れ落ちそうになるぐらい感動しました。この曲は凄い、どうして今までこの素晴らしさに気づかなかったのか、と。服を買うことなんかまったく忘れて、呆然と立ちすくんだまま聴覚だけが鋭敏になっていたことを昨日のことのように思い出せます。
しかしそのときの僕は間抜けなことに、曲名もアーティストも思い出せていなかったのです。絶対に知っている曲なのに!ああもどかしい!
で、その店員の友人に尋ねてみました。
「この曲なんやっけ?」
返ってきたのは、
「さあ?有線垂れ流してるだけやから」
というアホ丸出しの無責任な言葉。殺したろか!
いやもちろん殺しはしませんが、あまりに腹が立って店を出ました。今思えば、そのときすぐに有線のチャンネルを教えてもらって問い合わせれば曲名がわかったはずなのですが、そんなことにはまったく頭が回りませんでした。アホ丸出しなのは僕の方です。さらにアホなことに、僕はその曲を思い出すことをすぐにあきらめてしまったのです。今とは違い楽曲検索アプリなどもなく、とぼしい英語力では聴き取れる歌詞もほんの少しだけでしたし、これではどうにもならない、調べようがない、と思い込んでしまったのです。しかしこのときの僕は楽観的でした。こんな素晴らしい曲なんだから、すぐに思い出せるだろう、すぐにまたどこかで耳にすることがあるだろうと。
その後、何かの拍子にメロディを思い出しつつも、結局誰の何という曲かまで思い出せない、ということが何度もあって、メロディと曲名、アーティスト名が一致したのが、それから約3年も後のことでした。
2006年の夏、僕は再びアメ村の同じ店に立ち寄ろうと思い立ち、ぶらぶらと歩いていました。アメ村を散策するのがかなり久しぶりのことだったので、街並の変貌ぶりに驚きながらその店があった場所に辿りつくと、そこは空き地になっていました。
滅茶苦茶驚きました。
「嘘やろ?」と口に出していたかも知れません。え?なんであいつ教えてくれへんかったん?
急いで友人に連絡を取ろうと電話をかけてみると、
「その番号は現在使われておりません」
はあああっ!?
いやたしかに2年ぐらい会ってもなかったし連絡もなかったけど……ええええええっ!?
ショックでした。自分はあいつにとって携帯変更と共に切られてしまう程度の関係でしかなかったのか。会うことは少なかったけど、けっこう気の合ういい奴で、何度も飲みに行ったりもしてたのに。この服屋にも愛着があったのに。小さな店だけどアメ村の数あるセレクトショップの中でもちょっと異彩を放つ商品のチョイスがお気に入りだったのに。あとたしか3年ぐらい前にここで聴いたのがきっかけでR.E.Mの「Imitation Of Life」という曲の素晴らしさに気づけたのに。


…………って、あれ?


そうや!あの曲R.E.Mや!思い出したぁっ!!たまーに脳裏をよぎるあのメロディは「Imitation Of Life」やったんや!!
そこでようやく一致。さっきまで友人が音信不通になってしまったことを嘆いていたことなんて忘れてガッツポーズ。めでたしめでたし。
……とは流石にならず、友人が当時付き合っていた彼氏にも電話してみましたが、「俺らもう別れたから知らん」ととりつく島もない態度。どうもあまりいい別れ方ではなかったらしく、あまり突っ込んで訊くのもはばかられたので、とりあえず取り繕うように礼を言って通話終了。さてどうしたものかと思いながら、その当時まだ存在したアメ村のタワーレコードに立ち寄り、R.E.Mの「REVEAL」を買い求め、ウォークマンで「Imitation Of Life」をリピートしながら家路につきました。
以来、その友人とは未だに連絡がとれていません。
僕は友人を一人失ったかわりに、死ぬまで聴き続けるであろう名曲を思い出しました。
というとっちらかったお話。なんなんでしょうね、これ。書いててまったくカタルシスが得られません。思い出してスッキリ!な話のはずなのに。なんかすみません。


後日談。この日(2006年の7月下旬頃)CDを買ったアメ村のタワーレコードは、この直後2006年8月に閉店し、今ではその場所にまんだらけの場違いなビルがそびえ立っています。
アメ村のタワーレコードが大好きだったこと、あのときの友人のこと、色々な想いが交錯して嫌な気分になるので、まんだらけのビルはなるべく視界に入れないようにしています。

Reveal

Reveal

フェミニズムとパンクロック

今期アニメが面白くない!
どうも負け犬です。
フェイト、シドニアユーフォニアムという外れ様のない三本柱が存在した前期とは打って変わって葬式ムードの様相を呈してきましたね。ガッチャマンクラウズはやっぱ面白いけどと、今のところ前期の神アニメ「響け!ユーフォニアム」が終わったショックを隠せない39歳の夏です。ぼやぼやしてるとバカボンのパパに追いついてしまいます。やべえ!
さておき、今回も最近読んだ本とか紹介していきます。

明日の狩りの詞の (星海社FICTIONS)

明日の狩りの詞の (星海社FICTIONS)

「他の獲物のように愛しいとは感じなかった。殺したことに対する罪の意識もなかった。あんなのはすべて余裕あるときのかっこつけだと知った。今の俺は空っぽだ。殺意が消えて、あとはもう何もない」


何度も言いますが、僕が一番好きなライトノベル作家石川博品の(おそらく)一冊完結ものの小説です。最近話題になった漫画「ダンジョン飯」に似た傾向の作品と言えるでしょう。石川先生の叙情的な文章と心情描写のせいか、あまり「ダンジョン飯」と同系統の作品という感じはしませんが。むしろ小川一水の諸作品に似た読後感がありました。
物語の舞台はSF的パラレルワールド、現代とは常識の違う世界。だけどサイバーパンク的な荒廃感は薄く、アニメで例えるならNiea_7の世界に近しいものと言えばいいのか。そういった世界での、将来のビジョンも持たず、外来生物を狩ることにしかアイデンティティを見いだせない高校生主人公の成長物語。ライトノベルというより正統派ジュヴナイルといった趣の、最近ではあまり他に類を見ない小説です。
この作家はいつもそうなんですが、正統派私小説文学的なリリカルさを強烈に感じさせる地の文と、ネットミームを中心とするパロディをふんだんに散りばめた会話パートのギャグセンスのバランスが絶妙な作品。
あとこの人は、フィクションに於ける「女性性」の描き方がものすごく絶妙で、最初僕はこの人を女性作家だと思っていたぐらいです。
この作品に限らず、いつかアニメ化して欲しい作家No.1。


がらっと話は変わります。
Nirvanaの代表曲「Smells Like Teen Spirit」をカバーしているアーティストは多数いますが、声優の後藤邑子さんがこんなカバーを歌っているのは案外知られていないんではないでしょうか。
「パンコレ」という女性声優さんにパンクの名曲を歌わせる謎の企画アルバムがありまして、その大トリを飾る名カバー。賛否両論ありますが、というか否定的な意見ばかり聞きますが、僕はこのカバー大好きなんです。たぶん後藤邑子さんはニルヴァーナなんぞ欠片もご存じではないと思いますが、別に思い入れなんて無くても成立するカバーもあると思うのです。
セックスピストルズ、クラッシュ、ラモーンズ、グリーンデイ、オフスプリング、エクスプロイテッド(!?)といった謎の選曲を、門脇舞以田中理恵池澤春菜清水香里(敬称略)といった中堅どころの女性声優さんが萌え声でかわいらしく歌い上げる奇妙なカバーアルバム「パンコレ」。正直、買ってまで聴く価値があると思えるのはこの後藤邑子さんのニルヴァーナだけですが、こんなとち狂った企画を無理くり通してしまった情熱には敬意を表したいです。
ニルヴァーナがパンク?という野暮なツッコミは素人がばれるのでやめといた方が無難。
さてその流れでもう一曲。


こちらはごく最近知りました。原曲は英国のロックバンド、Manic Street Preachers。高名なポルノクイーン、トレイシー・ローズとのデュエット曲ということで発表時にもかなり話題になったんですが、話題ばかりが先行してしまい色物あつかいされている感の強い、悲しい名曲です。
これを歌うのは我らが歌姫KOTOKO
と、I'veの作曲家、高瀬一矢さん。
男性ボーカルが中心の曲なので高瀬さんがぐいぐい前に出て歌ってるんですが、これがなんとまあ素晴らしい歌声。I'veならではのオーバープロデュース気味な録音のせいもあるんでしょうが、KOTOKOにまったく引けを取らない歌唱力と豊かな表現力でこの名曲を歌い上げてくれています。
先ほど紹介したニルヴァーナとは違って比較的原曲に近いアレンジですが、I'veらしいアップテンポで元気が出るような曲調。KOTOKOの「ハヤテのごとく」を少し思い出させてくれます。
この曲は歌詞も凄く良くて、90年代を代表するラブソングだと僕は思っています。対訳歌詞付きバージョンがニコニコ動画に上げられていますので、興味がある方は探してみて下さい。
いつかこれと「Ever Stay Snow」を繋げたDJをやってみたいなあ…